2020年2月22日

弊社モデルハウス「京都マザーハウス紫野」は、私が生まれ育ったところに建てました

弊社モデルハウス「京都マザーハウス紫野」の紹介のため、
以下のような私の生い立ちのお話を、
季刊誌最新号に書きました。
同じ内容ですが、よろしければお読みください。

素晴らしいところだね、京都!    代表 石田 泰久

京都府京都市北区、西陣の端に生まれ育ちました。
私にとって京都は狭かった。盆地で山に囲まれているから狭いというのではなく、幼少期は行動範囲が限られていた。山といえば小高い丘の船岡山であり、川といえば近くにあるがあまり行かない賀茂川だった。

夏とはやたら暑い季節で六時前に起きてラジオ体操をするのが当たり前。町内の地蔵盆も数々のイベントがあり楽しかった。山からのアブラゼミの鳴き声は強烈でうるさいほど、ツクツクボウシが「惜しいつくづく」と鳴くと夏休みが終わった。機織りの音はそこらじゅうからガシャガシャと夜が更けるまで鳴っていた。夜は私をボン、ボンと呼ぶ祖母がなかなか寝付かぬ私を団扇であおいでくれたっけ。

真っ赤な柿の実る美しい秋はすぐに終わり、冬の底冷えが長く続く。手水鉢や水たまりの氷を割って登校。しもやけとあかぎれはお約束で、教室がダルマストーブで暖まると、足先がじんじん痒くなった。家の暖房は火鉢と石油ストーブが中心で、就寝時は母がふとんの中に豆炭の行火を入れてくれた。
正月は叔父の家に親戚一同が集まり朝から晩まで花札をした。弱かった私は負けてよく泣いたものだ。

そんな京都を二十歳のときについに出た。
進学で憧れの東京(住まいは千葉)に移り独り暮らしを始めたのだ。
と、青年パラダイムシフトが襲いかかる。今まで暮らしてきた土地は何だったのか?東京は冬も過ごしやすく空も青かった。街も輝いていた。DCブランドやカフェバーが全盛の頃で青年は慌ててシティーボーイになりアカヌケていった。(ホントか?)京都時代は「なかったこと」のように振るまい続けた。

それから七年経ち京都に戻り、バスの中で女子高生の京都弁を聴き、なつかしさで笑いをこみ上げる。

それから三十年余が経つ。家業を継ぎ、結婚し子どもができシティーボーイは京都のおじさんになっている。
そんなおじさん、あれれどうしたことだろう?生まれ故郷への思いが急降下。今はどっぷりとつかっている。

蝉時雨、機織りの音、祖母の団扇、ラジオ体操、地蔵盆、底冷え、あかぎれ・・・
覚えていた感覚が身体の細胞を揺さぶる。私の中でなにが起こっているのだろう?

両親は高齢になった。お陰様で健在。子どもも二十歳になった。夜は地元の野菜を使って家族が食べる料理をつくる。五感を働かせておいしく食べてもらおうと。あすも天気が良さそうだ。
朝、マザーハウスの家庭菜園に水やりをしよう。そんな日々の暮らし。そして次の日がやってくる。

素晴らしいところだね。京都! 本当にそう思う。

Webからお問い合わせ 0120-296-481